フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

比叡山戒壇院

戒壇院 戒壇院02
「戒壇院 【重文】
 僧侶が大乗戒(規律)を受ける比叡山中で最も重要なお堂で、わが国に始めて大乗戒坦院を建立すべく、心血をそそがれた伝教大師の没後七日目に勅許を受け、天長五年(828)第一世義真座主により創建されたお堂であり、内陣に得戒和尚釈迦牟尼仏と文殊、弥勒両菩薩が祀られ、年に一度受戒会が行われます。」(案内板から)
 これで2月22日比叡山諸堂めぐりは終わり。比叡山ドライブウェイを京都に下りて、山科へ行き、京都東インターチェンジから帰る。奥比叡から比叡山ドライブウェイをフルに走るとけっこうな金額を取られた。
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比叡山東塔・阿弥陀堂

東塔 阿弥陀堂
 文殊楼からいったん駐車場の土産物売り場に行って昼食をとろうとしたが、鶴㐂蕎麦の出店は休みで、ぜんざいのみしかなかった。仕方ないので、ぜんざいを頼んだが、餅も入ってけっこう腹を満たした。そこから改めて東塔、阿弥陀堂の方へ向かう。
比叡山東塔・阿弥陀堂 - Spherical Image - RICOH THETA




比叡山文殊楼

文殊楼石段 文殊楼
 根本中堂を見下ろす所に楼門があり、中に入れる。楼門の階上には文殊菩薩が祀られている仏壇がある。
「 元三大師良源については今日あまり知られていないので、簡単に述べておこう。912~985年、18代の天台座主である。彼以前、叡山は根本中堂などの諸堂塔を失い荒廃していた。創建当初は小堂だった根本中堂を巨大建築として再建したり、横川を開発したりするなど比叡山発展の基礎を作った。寺社勢力としての比叡山の創始者は、最澄ではなく良源である。彼の時代すでに悪僧が多数住しており、園城寺との争乱も起こっていた。祇園社を興福寺から奪取したのも彼である。『往生要集』の著者源信はその弟子である。謚号は慈恵大師。命日が正月三日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。横川にある良源の住房跡には良源像が安置されている。『今昔物語』に多くの逸話を残す。『徒然草』は良源を起請文の創始者だと記す。没した直後から今日に至るまで、「角大師」「豆大師」「厄除大師」などと呼ばれ、広く民間信仰を集めている。角大師の画像は、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の絵である。良源が鬼の姿に扮装して疫病神を追い払った時の像であるという。魔除けの護符として京都の民家に貼られた。伝説の偉人である。」
(伊藤正敏『寺社勢力の中世』P164~165)
角大師001
「角大師
元三大師良源の画像を角大師と称する。この絵は、良源が夜叉の形相となった姿を写生したものと伝えられ、つのの生えた黒鬼が、「いざ参ろう」と立てひざしているごとき絵で、江戸期には魔よけとして門口にはられた。」
(『日本架空伝承人名事典』から)


延暦寺根本中堂

根本中堂入口 根本中堂
 根本中堂は工事改修中。
「 感神院祇園社は、十世紀半ばには興福寺末寺だった。それを、戦争という手段に訴えて叡山が強奪した。祇園社の祭神は病気よけの牛頭天王、同体の本地仏は延暦寺の本尊と同じ治病の薬師如来である。菅原道真の怨霊を祭る北野社も叡山末寺となっていた。祇園社・北野社の祭礼が二大御霊会とされた。叡山が両社を傘下に収めていたことは、おそらく偶然ではないだろう。日吉神輿動座の際、この二社の神輿がお供することが多い。
 1147年、叡山の嗷訴の際、お供の祇園社神人が喧嘩事件を起こした。鳥羽院は『祇園社の乱行はけしからぬ。感神院が天台の末社というのは枝葉、本文は国家の鎮守というところにある。提訴内容を審議している最中に、合戦に及ぶとは何事か』と怒った。
 国家安泰の祈りのうち、首都の疫病消除という重要な役割を担い、京の人々の帰依が一番篤い祇園社が叡山の手中にあるというのは、政権にとって大きな重圧である。中世から今日まで日本最大の祭礼であり続ける祇園会が、これ以後ずっと、比叡山の勢力下にあったのだ。」
(伊藤正敏『寺社勢力の中世』ちくま新書、2008、P55)

比叡山国宝殿

比叡山国宝館003 諸堂めぐり003
 東塔地域に行く。比叡山というと、西塔地域や横川地域でなくここに来て、比叡山に来たと言われていることが多い。すぐ国宝殿があるので、入る。慈恵大師坐像というのが、元三大師を彫ったもの。
「『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「西塔本覚院に安置される像は、延暦寺に伝存する慈恵大師像のなかではもっとも古く、作柄もすぐれている。像高85.7cm、寄木内刳(うちぐり)、彩色、玉眼嵌入像。(中略)像内脚部に長文の墨書銘があり、1265年(文永2)12月制作のこの像は、比叡山楞厳院(りょうごんいん)の僧仏子栄盛が1261年(弘長元)から一生涯の間に等身の御影33体造立を発願したうちの第5作目である。(中略)叡山中興の祖とされる慈恵大師良源(912~985)は寂後、俗に元三(がんさん)大師とも称され、山門の護法者としておおいに信仰された。寂後しばらくは画像がえがかれたが、やがて彫像化されるようになり、とくに13世紀中ころ以降さかんに造像された。本覚院像も護法像にふさわしくその容貌は魁偉である。」
(「レファレンス共同データベース」から)

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