フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

浮御堂

満月寺山門 浮御堂
「浮御堂の歴史
 近江八景の一つ堅田の落雁として有名な堅田の浮御堂は、びわ湖の最狭部に位置し、海門山満月寺と称する禅寺で京都紫野大徳寺に属する。昔一条天皇の長徳年間(西暦995年頃)比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都が、びわ湖を山上より眺め湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生済度を発願したに始まる。因みに僧都は、我が国の宗教思想に大きな影響を与え、浄土教学の基礎を樹立した『往生要集』の著者である。真宗伝灯第六祖と仰がれている。」(パンフレットから)
浮御堂橋 浮御堂仏壇
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白髭神社

内外宮・八幡三社 天満・波除稲荷・寿老神・鳴子弁財天 岩戸社 岩戸
 若宮社の後ろが山の斜面で、森になっている。そこに八幡三社・内宮・外宮が横並びにある。その裏には、赤い小さな鳥居の後ろに、天満社・波除稲荷社・寿老神社・鳴子弁天社が並ぶ。さらにその後ろに岩戸社があり、横に磐座が祀られていた。
白髭01

白髭神社 白髪神社境内 大鳥居
 湖側から、白髭神社を見上げると、背後の375m峰がきれいな三角形になっている。これはまさに神体山だろう。

竹生島

宝厳寺石段1 宝厳寺2 宝厳寺3
 165段の石段を登り切ると宝厳寺弁天堂。三重塔。重文五重石塔など。
竹生島02 竹生島006
宝厳寺弁天堂 宝厳寺五重石塔 宝厳寺三重塔 三龍堂
 それからおもしろかったのが、行尋坊天狗同というのがあった。観音堂、唐門、都久夫須麻神社などは修理中で、立ち入れない所も多く、また直ってから来なくては。
天狗堂 弁天像 舟廊下 都久夫須麻神社本殿








竹生島港

渡船1 渡船2 渡船3
 30分程で竹生島に到着。彦根からとか、巡礼の貸し切り船とか、いろいろ港に入ってくる。
「『古今著聞集』巻一六には齢七〇を超そうかという老僧が湖上を闊歩し、参詣に来た延暦寺僧を驚嘆させた逸話が載るが、現在でも島の北部にある霊窟とよばれる洞窟には注連縄が張られ、行者が修行を行っている。なお天保二年(一八三一)の堅田釣猟惣代一札(竹生島文書、以下断らない限り同文書)によれば「殺生禁制」の島とされており、「御島方八町之内」には釣船を入れること、風待ちのため湊に停泊することを慎み、風待ちで入津した際にも魚肉等を扱わないことを漁師仲間惣代の名で誓っている。」(『滋賀県の地名』から)
 ここで言われているのは、以下の物語だ。
「 いづれの頃の事にか、山僧数多ともなひて、児(ちご)など具して、竹生島へ参りたりけり。巡礼はてて、今は帰りなんとしける時、児どもいふやう、『この島の僧たちは、水練を業としておもしろき事にて侍るなり。いかがして見るべき。』といひければ、往僧の中へ使をやりて、『少人たちの所望かく候、いかが候べき。』といひやりたりければ、往僧の返事に、『いと易き事にて候を、さやうの事仕うまつる若者、只今たがひ候ひて一人も候はず。返す返すも口をしき事なり。』といひたりければ、力及ばでおのおのかへりけり。舟に乗りて、二三町ばかり漕ぎ出でたりける程に、張衣(はりぎぬ)のあざやかなるに、長絹(ちょうけん)の五帖の袈裟の、ひだあたらしきかけたる老僧、七十餘りにやあるらんと見ゆる、一人はぎをかきあげて、海の面をさし歩みて来るあり。舟をとどめて、ふしぎの事かなと、目をすまして見居たる所に、近く歩みよりていふやう、『辱(かたじけな)く少人たちの御使をたまひて候。をりふしわか者どもみなたがひ候ひて、御所望空しく御帰り候ひぬる、生涯の遺恨に候よし、老僧の中より申せと候なり。』といひてかへりにけり。『これに過ぎたる水練の見物あるべきや。』と目をおどろかしたりけり。」
(『日本文学大系:校注』第10巻、国民図書、1926、NDL digital collectionsから)
 本当に琵琶湖汽船の切符にも、霊窟のイラストがある。また、北に小島があり、竹生島本体の大島は浮遊するので、小島に繋ぎとめるというような行事もあるらしい。
竹生島01

竹生島港 竹生島上陸

今津港

今津港 竹生島接近 船内から竹生島
 6月2日、ホテルは竹生島へのチケットもパックになったものだったので、朝一番の淡海今津港へでかけた。竹生島も、雲に覆われているが伊吹山も見える。
「今津湊
 中世以来湖西有数の湊として栄えた。近世には若狭からの物資は九里半くりはん街道を越えて当地に至り、丸船に積まれて大津や湖東の湊に運ばれた。また若狭方面から竹生ちくぶ島(現東浅井郡びわ町)へ参詣に行く人々で繁盛した。天正一一年(一五八三)羽柴秀吉は若狭往還の荷物はすべて先例により今津浦に着けるよう命じている(「羽柴秀吉書状」河原林文書)。これは大坂城築城の際、今津に功があったためといわれる。」
「嘉吉三年(一四四三)には太良たら庄(現福井県小浜市)の正覚院宝永が鋳造した鐘が、同庄百姓らの手で当地に運ばれ、琵琶湖を経て京都東寺に運送されている(年欠四月二七日・一一月日「太良庄百姓等申状」東寺百合文書など)。また文明一一年(一四七九)六月、加賀から京都に帰る前権大納言中院通秀は、当地から坂本まで船で渡っており(十輪院内府御記)、問丸の存在(河原林文書)と合せて、水上交通の要衝となっていた。」(『滋賀県の地名』から)

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