フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

高松塚古墳

高松塚遠望
 キトラから整備された散歩道を行くと、遠く高松塚が見えてくる。高松塚古墳壁画を発掘した関西大学の網干善教さんには、仏大通信教育で学芸員を取った時に講義を受けた覚えがある。善教さんも、文化庁の措置には怒っていたようだ。
高松塚古墳 高松塚周回路 高松塚から
「高松塚古墳
 彩色壁画発見まで…
 高松塚古墳は飛鳥地方の西南部に位置し、この一帯は桧隈(ひのくま)と呼ばれています。渡来人がとくに居住したといわれ、周辺には天武・持統・欽明・文武の各皇陵や中尾山古墳、岩屋山古墳などが築かれています。江戸時代のころ、高松塚は文武天皇陵ではないかと伝承されていた記録も多くみられます。
 地元の人が墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘ったところ凝灰岩の切石を発見、これがきっかけとなって昭和47年3月から調査が行われ壁画発見となったのです。
 原寸・原色で再現した”飛鳥の秘宝”展示品紹介
彩色壁画
・四神の図と日像・月像
 四神は中国の思想に基くもので古来天子の象徴として用いられ、四方を鎮護し東西南北の方位を表します。青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北・亀と蛇)は星座の形から具象化されたものです。青龍・白虎の上部にそれぞれ日像・月像が描かれており、天井の星宿とともに被葬者の尊貴性を物語っていると思われます。
・人物群像
 男子4人、女子4人各1組の群像が、東西両壁に2組ずつ(計16人)描かれています。男子群像のいずれもが蓋(きぬがさ)、柳筥(やなぎばこ)、床凡(しょうぎ)、鉾(ほこ)のようなものを持っているのに対し、女子群像は2人ずつが東壁では団扇(だんせん)、払子(ほっす)を、西壁では翳(さしば)、如意(にょい)を持っているのが特色です。どの像もすぐれた筆致で実に細かく描かれ、わが国美術、絵画史上すぐれた作品と評価されています。」(パンフレットから)
高松塚02 高松塚壁画館
 近くの文武天皇陵を通って、キトラ古墳駐車場まで帰る。
文武天皇陵





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キトラ古墳

四神の館 キトラ古墳 国営飛鳥歴史公園
 キトラ古墳周辺は、駐車場や売店等も整備され、国営飛鳥歴史公園の一部になっている。高松塚古墳へも、途中までは公園内を散策しながら行ける。
「特別史跡 キトラ古墳 
                        史跡指定:平成12年7月31日 
                        特別史跡指定:平成12年11月24日
                        指定面積:約4,381㎡
キトラ古墳は7世紀末から8世紀初めに造られた古墳で、丘陵の南側斜面に位置します。墳丘は二段築成の円墳で、発掘調査の成果などから、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mに復元できます。現在の墳丘は、下段部分を築造当時の大きさに復元しています。内部には二上山産凝灰岩の切石を18枚組み合わせて作られた石室があります。石室内部は奥行2.40m、幅1.04m、高さ1.24mの大きさで、鎌倉時代に盗掘を受けていましたが、刀装具片、琥珀玉などの副葬品の一部と、木棺片や棺の飾金具、人骨などが出土しています。 昭和58年に行ったファイバースコープによる石室内部の探査で、北壁に玄武が描かれていることが分かり、高松塚古墳に次ぐ我が国で二例目の大陸的な壁画古墳であることが明らかとなりました。その後の小型カメラによる探査では、青龍、白虎、朱雀、十二支像、天文図がみつかりました。
 石室内部の小型カメラによる探査では、壁画が危険な状態にあることも明確となりました。そのため、早急な対応が必要とされ、平成15年に仮設保護覆屋を設置し、平成16年に石室内の調査を行いました。その結果、すべての壁画を取り外して保存処理を行う方針が決定しました。
 この方針を受けて平成22年までにすべての壁画が取り外され、修理が進められました。現在は壁画の保存・公開が行われています。
                           平成28年 文化庁」(案内板から)
 キトラも高松塚でも、文化庁の失態によって、保存状態が悪くなったというのは、有名なハナシであるが、りっぱなのを造ったものである。

キトラ02 キトラ04

橘寺

橘寺遠景 橘寺本堂 橘寺放生池
6月18日、今院生と読んでいる「EXPLAINING PICTURES ; Buddhist Propaganda and Storytekking in Japan」 Ikumi Kaminishi, に出てくる飛鳥の橘寺に出かけた。聖徳太子御誕生所、という石碑が立ち、本堂は太子堂で、黒駒の銅像まである。
 掛け図八幅の聖徳太子絵伝があり、春と秋に聖倉殿で展示されるようだ。境内には善と悪の二面石がある。そして、親鸞聖人像が立てられていた。聖徳太子カルトは絵伝によって、浄土真宗に受け継がれたと、Ikumi Kaminishiが書いていたのは、確かであった。橘寺は法相宗から天台宗に移ったが、浄土真宗であったことはなかったのに、親鸞像があるのだ。
橘寺境内図 橘寺01


橘寺観音堂 橘寺二面石 親鸞像 橘寺聖倉殿
 

伊豆神社と湖族の郷資料館

湖族02
浮御堂近くの「湖族の郷資料館」へ行って話を聞くと、伊豆神社というのが、この辺で一番古いと聞いて途中にあった伊豆神社に行って見た。
「伊豆神社 [現]大津市本堅田一丁目
 堅田かたたの宮みやの切きりに鎮座。文政八年(一八二五)の本堅田村絵図(当社蔵)では堅田藩陣屋の南西にあり、四方を琵琶湖に通じる堀で囲まれる。中・近世には堅田大宮と称され、宮の切の名は当社に由来する。「輿地志略」には走湯はしりゆ権現社とある。旧村社。現祭神は大山祇おおやまつみ命であるが、元禄一一年(一六九八)の本堅田村明細帳(居初文書)などには伊豆大権現・神田大明神とみえる。比叡山の法性坊が諸国を修行中伊豆三島みしま(現静岡県三島市)を通った際、権現が笈に乗移り、当地に勧請されたという。また宮の切には大友皇子が住んだといい、当社の祭神を大友皇子とも伝える。神田大明神は京都下鴨社の別所とされるが、中世、当地に同社領堅田御厨が置かれていたことに関係するものと考えられる。」
(『滋賀県の地名』から)
 これで6月2日の予定は終了。帰途につく。
伊豆神社参道 伊豆神社堀 伊豆神社拝殿

浮御堂

満月寺山門 浮御堂
「浮御堂の歴史
 近江八景の一つ堅田の落雁として有名な堅田の浮御堂は、びわ湖の最狭部に位置し、海門山満月寺と称する禅寺で京都紫野大徳寺に属する。昔一条天皇の長徳年間(西暦995年頃)比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都が、びわ湖を山上より眺め湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生済度を発願したに始まる。因みに僧都は、我が国の宗教思想に大きな影響を与え、浄土教学の基礎を樹立した『往生要集』の著者である。真宗伝灯第六祖と仰がれている。」(パンフレットから)
浮御堂橋 浮御堂仏壇
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