FC2ブログ

フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

中山神社境内

祝木のケヤキ 中山ムクノキ 中山イチョウ 牛馬殿
 中山神社境内では牛市なども開かれたそうで、写真のような牛馬像もある。また、一遍上人が参拝に訪れたことが、『一遍聖絵』第八巻第三段に描かれていた。
「 美作国一の宮にお参りになった時、穢れたものもあろうといって、楼門の外に踊り屋を作ってお入れしました。そこを立ってかなもりという所へおいでになった時、一の宮の一の禰宜が夢を見ました。『一遍房をもう一度お招きしなさい。説法を聴聞したい。』と神のお告げを受けました。又御殿の後ろの山がひどく鳴動したのを何事かとたずねますと大明神は法性の宮にいらっしゃいましたが、御聴聞においでになったのだといいます。又御殿の下には大蛇どもが数知れずいると見て夢が覚めました。そのために又、聖をお招き申しあげて、こんどは乞食たちを門外に置き、聖と時衆達を拝殿にお入れしました。その時、みこくの釜が激しく鳴って、二三町ほどまで聞こえました。宮司は不思議に思って巫女を呼んで占わせましたところ、『私はこの聖を供養したいと思います。この釜で粥を炊いてさしあげなさい。』と御託宣がありました。それで粥を炊いてさしあげますと、釜はすぐ鳴り止んだのです。」
(『国宝一遍聖絵』から)
総神殿 国司社 御先社
 総神殿       国司社        御先社
スポンサーサイト

中山神社

 高野本郷から中山神社に向かう。
中山神社一鳥居 中山神社境内 中山神社参道 中山出雲型狛犬 中山狛犬
「中山神社の指定文化財
 中山神社は、慶雲四(707)年の創建と伝えられる美作国の一宮です。『延喜式』にも載せられた式内社で、『今昔物語』には「今昔、美作国ニ中参(中山)・高野ト申神在マス。」と記され、『一遍上人絵伝』にも弘安九(1286)年の春に一遍上人が美作一宮(中山神社)に詣でた様子が描かれるなど、古来より広くその名を知られていました。
●中山神社本殿(国指定重要文化財、大正三年四月十七日指定)は、『作陽誌』等によると戦国時代に兵火に遭ったものを永禄二(1559)年に戦国大名の尼子晴久が再建したものと伝えられています。入母屋造、妻入で向唐破風の向拝を有するこの本殿は、「中山造」と呼ばれる美作地方独特の神社建築様式であり、中山神社本殿を最古の例としています。●中山神社神門(市指定重要文化財、昭和五〇年十一月十五日指定)は、もと津山城二ノ丸の四脚門で、廃城後の明治七(1874)年に中山神社に移築されたものです。本柱二本と控柱二本からなる薬医門形式で、屋根は切妻造、檜皮葺です。柱や梁には太いケヤキを用いており、あまり装飾を加えず、軒を高くしているところなど、いかにも城門らしい建物です。
●中山神社祝木のケヤキ(市指定天然記念物、昭和四八年一〇月二〇日指定)は、鳥居前の参道上にある推定樹齢八〇〇年のケヤキの大木で、胸高周囲九メートル、根廻り一〇.五メートルで地上五メートル付近から枝が分かれ、内部は空洞となっています。道路に面して祝木社の祠がありますが、この神は元はこの地にいて中山神に国譲りをした先住神とされています。
●中山神社戦国武将文書(市指定重要文化財、昭和五〇年十一月十五日指定)は、美作を支配した戦国武将が戦勝祈願や奉納などのために中山神社にあてた文書です。尼子晴久判物、毛利元就判物、吉川元春外三名連署書状、毛利元就書状、浦上宗景判物の五通からなり、元禄三(1690)年に津山森藩家老の長尾隼人勝明によって一巻に成巻されました。
 このように、中山神社では数多くの貴重な文化財が現在に至るまで大切に受け継がれています。
                          津山市教育委員会」
(案内板から)
中山神門 中山中門 中山注連縄 中山造 中山本殿


高野神社(高野本郷)

高野神社(本郷)一鳥居 高野神社(本郷)参道 高野神社(本郷)二鳥居 高野神社(本郷)境内
 2月13日岡山県津山市高野本郷の高野神社まで出かける。津山には高野神社が二つあり、美作二之宮の高野神社と、こちら。
「今昔、美作国ニ中参(ちうさん)・高野(かうや)ト申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」(『今昔物語』から)『宇治拾遺物語』にも同様の記述があるが、どちらもこの高野だと主張しているようだ。だが、高野本郷の方には蛇伝承がないようなので、そこが違う。すぐ隣に永案寺がある。
高野神社(本郷)石段 高野神社(本郷)拝殿 永案寺
「 高野神社御由緒
 御祭神 高野造祖大神
  主神 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
  相殿 応神天皇・神功皇后
 高野神社の創祀年代は不詳であるが、はじめて国史に登場するのは貞観六(864)年従五位に叙せられたことに始まる。ついで貞観十七(875)年正四位下に昇叙され、さらに、延喜五(905)年から編纂された「延喜式」の神名帳に登載され、式内社となった。式内社は、美作国では十柱しかなく、津山市内では中山神社と高野神社のみである。
 御祭神は、古くは鵜葺草葺不合命一柱であったが、中世に武家の勃興とともに、相殿に応神天皇、神功皇后をお祀りして、明治維新頃までは八幡宮と称して、篤く信仰を寄せられてきた由緒ある古柱で、現在ではこの高野の地を開拓し、繁栄に導かれた祖神として、高野造祖大神と称えている。
 神社の周辺には神社に因んだ屋敷、池等の地名が広範囲にわたって数多く残っており、往時が偲ばれる。
 御神徳は古来安産、厄除等の信仰が殊の外篤く、大神の広大無辺な御神徳を慕って遠近の参拝者が後を絶たない。
 近年では交通安全、家内安全等に加え、地域の稚児の初宮まいり、七五三まいり等の御祈願も次第に増加している。
 現在の御本殿は、文化九年(180有余年前)に建立されたものである。」
(案内板から)
 裏手に小詞がいくつもあり、牛神社などは珍しい。
境内社群 牛神社 荒神社


大覚寺身振り狂言

節分祭 茅渟殿 閻魔庁
 2月3日阪神尼崎駅から歩いて5分程の大覚寺に出かけた。
「現存する尼崎最古の名刹で律宗の寺院です。本堂以下の建物は明治10年の大火で焼失し、再建されたものです。寺伝によれば推古8年(600)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長洲の浦に造らせた寺と伝えられています。中世の古文書(県指定文化財)が保存されています。中世の大覚寺の場所は、現在の南城内から東本町4丁目あたりで、残された絵図によれば寺内には市庭(場)が設けられ住民の公共施設としての機能も果たし、宗教だけでなく政治・経済・文化全般にわたる中心になっていたことが分かります。」(尼崎市、尼崎の文化財から)
鬼 舌を抜く 地蔵
 この大覚寺文書に狂言の記録があったことから、昭和28年に壬生狂言の指導を受けて復活、京都の外で大念仏狂言が観られるのは、小浜市と尼崎市だけである。
 演目「閻魔庁」は亡者の舌が抜かれ、茹でられ、鬼に喰われているところを地蔵菩薩が救うというもの。帰り、阪神尼崎駅内の「モンパルナス」でピロシキを買う。昔テレビでやっていた「パルナスピロシキ」である。
大覚寺身振り狂言 

甘縄神明社

神輿山 甘縄神明社鳥居 甘縄神明社正月準備 甘縄神明社本殿
 藤沢駅から江ノ電に乗って長谷で降りる。神社では大勢の人が何やら準備を始めていた。聞くと正月の飾だという。本殿の右手に秋葉社があり、そこからさらに右に登ると石祠があり、海が木々の間から見える。
「甘縄神明神社 あまなわしんめいじんじや [現]鎌倉市長谷一丁目
鎌倉大仏の南東、光則こうそく寺の東にある。祭神は天照大御神以下の五社明神。例祭九月一四日。旧村社、長谷の氏神社。もとは甘縄明神・神明社・神明宮などと称した。昭和七年(一九三二)改称。社蔵の縁起略(正徳二年八月写)によれば、和銅三年(七一〇)僧行基の創建で、染屋太郎時忠が山上に神明宮を、麓に神輿山円徳えんとく寺を建立したのを始まりとし、相模守として下向した源頼義が当社に祈願し、八幡太郎義家を甘縄の地で生んだと伝え、康平六年(一〇六三)に当社を修復、永保元年(一〇八一)には義家がさらに修復したという。」
(『神奈川県の地名』から)
 12月24日、横浜から新横浜に行き、こだまで帰る。
甘縄神明社秋葉社 登り口 甘縄神明社石祠 相模湾

次のページ

FC2Ad