フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

韓竃(からかま)神社

韓竃神社鳥居k 韓竃神社石段 韓竃神社割目m
猪目洞窟から韓竃神社へ向かう。すぐだと思っていたが、方角が違っていた。あらためてカーナビで鰐淵寺を目指し、分岐で韓竃神社へ向かう。以前より整備されていて、林道の入り口に駐車場が出来ていたし、石段にも手すりがつけられていた。
「唐川村
 別所べつしよ村の西方、唐川川上流の山中に位置する。辛川とも記し、北西は猪目いのめ浦。平安末期、「国中一之伽藍」と称された鰐淵がくえん寺が地内に建立された。同寺は一四世紀半ばに別所に移転するが、以後も別所と合せて同寺の寺内と位置付けられていた。天文一二年(一五四三)六月二八日の鰐淵寺領書立(鰐淵寺文書)で鰐淵寺に対して「別所・辛川室役、紺役、其外諸課役」などが免除されている。天正一九年(一五九一)一二月一六日、毛利氏は同寺に対して「二石九斗五升 別所・辛川」などを打渡している(「毛利氏奉行人連署打渡状」同文書)。(中略)
 地内の韓竈からかま神社は「延喜式」神名帳に載る出雲郡の同名社に比定される。同社は「出雲国風土記」では韓銍からかま社とみえ、近世には智那尾権現(「雲陽誌」など)と称し、山中境内には主神として祀る素盞嗚尊が乗っていたとされる岩舟(二間四方ほどの平石)がある。」(『島根県の地名』から)
あまりに険しい登りなので出雲市の注意がHPにある。「韓竃神社へ参拝される皆さまへ」
8月3日の行動は、これで疲れたので終了。
韓竃神社境内 韓竃神社祠 韓竃神社岩穴




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猪目洞窟

猪目洞窟全景 猪目洞窟船置場 猪目隧道
 宍道湖畔のうなぎ屋で昼を食べてから西へ。
「黄泉の穴
 所造天下大神命が、神魂命の御子、綾門日女(あやとひめ)命に求婚なさった。そのとき、女神は承諾せずに逃げ隠れなさった時に、大神がうかがい求められた所がこの郷(宇賀郷)である。だから宇加という。北海の浜に磯がある。名は脳磯(なづきのいそ)。高さ一丈ばかり。上に生えた松が生い茂り、磯まで届いている。邑人が朝夕に往来しているかのように、また木の枝は人が引き寄せたかのようである。磯から西の方に窟戸(いわやど)がある。高さ・広さはそれぞれ六尺ばかりである。窟の中に穴がある。人は入ることができない。奥行きの深さは不明である。夢でこの磯の窟のあたりに行くと、必ず死ぬ。だから土地の人は古より今にいたるまで、黄泉の坂・黄泉の穴と名づけている。]
(『出雲国風土記』出雲郡から)
「猪目(いのめ)洞窟
 古代の人々は、死者の世界を「黄泉」と表現していました。『出雲国風土記』には、「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれ、「夢の中でこの洞窟に行くのを見たならば、必ず死んでしまう。ここは昔から黄泉の坂、黄泉の穴と呼んでいる。」と記されています。
 古代には、この洞窟は「あの世」につながると信じられていたようです。」
(案内板から)
「国指定史跡 猪目洞窟遺物包含層 1957(昭和32)年7月27日指定
県指定文化財 猪目洞窟遺跡出土遺物 1974(昭和49)年12月27日指定
 この洞窟遺跡は、1948(昭和23)年に、漁船の船置場として利用するため入口の堆積土を取り除いた時に発見されたものです。
 凝灰岩の絶崖にできたこの洞窟は、東に向かって開口しており、幅約30m、奥行き30mあります。
 この遺跡は、縄文時代中期の土器片も少量採集されていますが、弥生時代以降、古墳時代後期まで(2300~1400年前)の埋葬と生活の遺跡といえます。
 埋葬の遺跡としては、人骨が13体以上見つかっており、特に注目されるものとしては、南海産のゴホウラ製貝輪をはめた弥生時代の人骨や、舟材を使った木棺墓に葬られた古墳時代の人骨、稲籾入りの須恵器を副葬した人骨などがあります。
 生活の遺跡としては、各種木製品、土器、骨角器などの道具や、食料の残滓と思われる貝類、獣骨、鳥骨、魚骨、木の実など、また多量の灰などがあります。
 出土品は、現在出雲弥生の森博物館(出雲市大津町)で保管されています。
                      2008(平成20)年3月
                         出雲市・出雲市教育委員会」
(案内板から)




猪目洞窟入口 猪目洞窟奥

佐太神社

佐太神社橋 佐太神社石段 佐太神社拝殿
「佐太神社の御由緒
 佐太神社は出雲国風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社または佐太御子社と記されており、延喜式では出雲国二ノ宮と称され、出雲国三大社の一つとして「佐陀大社」と称えられた御社です。
 荘厳な御本殿三社(国指定重要文化財)に主祭神の佐太大神をはじめ十二柱の神々をお祀りしています。佐太大神は猿田彦大神とご同神で「導きの神」として知られています。また、八百万の神々がお集まりになる神在祭は出雲の国数社で執り行われているものの中でも、文献上最も古く、かつ祭の形態も古い形を受け伝えおり、「神在(かみあり)の社」といわれ、全国各地から広く信仰を集めています。

佐陀神能
 佐太神社の「御座替祭」にあわせて執り行われる「七座神事」「式三番」「神能」の三つの神事舞を総称したものです。
 この形式での神事舞は古くから行われており、出雲国内の神楽はもとより多くの里神楽に影響を与えたと言われています。
 また、神社の祭事に能形式の神楽を奉納するのは全国的にも他に類を見ないものであり、その形式は芸能史的に高い価値をもつものです。
 昭和51年5月に国の重要無形民俗文化財に指定、平成23年11月にはユネスコの無形文化遺産リストに登録されました。」
(パンフレットから)
佐陀神能001 佐陀神能002
佐太神社脇殿 佐太神社脇殿2 佐太神社社日塔






松江市鹿島歴史民俗資料館

鹿島の町 鹿島歴史民俗資料館001 鹿島歴民資料館002
佐太神社前の松江市鹿島歴史民俗資料館に入る。小さいが神能など興味深い展示が多く、図録も豊富。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る やしの実ひとつ 島崎藤村
 藤村は太平洋の潮流をうたったが、日本海にもこうした潮流が存在する。
 佐太神社のお忌祭に先がけて、島根半島の海岸に流れ着く「龍蛇さん」と呼ばれるウミヘビは、南海産のエラブウミヘビやセグロウミヘビである。これらのウミヘビは対馬海流にのって秋口から初冬にかけて漂いつく。この地方ではこのウミヘビを佐太神社や出雲大社で行われる神在祭に集まる神々の案内役として大切に取り扱う。
 島根半島には、こうした海にかかわる記憶が数多くとどめられている。」
(図録『海の記憶~波濤を越えた人々~』から)
 一日目の出雲古代歴史博物館で見た「神在月」の展示や、そこここにあった藁蛇がつながったような気がする。
海の記憶001

恵曇(えとも)神社

恵曇神社本殿 恵曇神社注連縄 恵曇神社境内祠
「恵曇郷
 郡家の東北九里四十歩の所にある。須佐能平命の御子、磐坂日子命が国をめぐりなさった時に、ここにいらしておっしゃられたことには、『ここは国が若く美しいところである。地形は画鞆(えとも)のようである。私の宮はここに造ることにしよう。』とおっしゃられた。だから、恵伴という。」(『出雲国風土記』秋鹿郡の郷)
「磐坂日子命と恵杼毛(えとも)社
 スサノオの御子とされる磐坂日子命は他の史料にはみえない神で、『若々しく美しい、絵に描いた鞆のようだ』と国ぼめしてその土地に静まる、恵曇郷の地域神である。(中略)現在、磐坂日子命を祀る恵曇神社の本殿右手後背の斜面には巨岩が祀られている。磐坂日子命(『雲陽誌』ではスサノオ)が、巡幸の際に腰掛けた岩とされ、信仰の対象となっている(座王権現)。」
(『解説出雲国風土記』解説50から)
 こうあるので、本殿右手後背を探すが、崖崩れの擁壁のみで見当らず。裏の階段を登るが見つからない。道路が通っているのみであった。崖が迫った地形なので、安全のため工事で取り除かれてしまったのかも知れない。その後調べると、畑垣の恵曇神社と言われる神社に座王権現があるようだ。スサノオの息子としては和歌山に五十猛命が伝わる。

恵曇神社裏d 恵曇町並
 佐陀川の河口でドローンを飛ばす。
 佐陀川河口 佐陀河口橋s

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