フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

桃太郎神社と貞照寺(10)

祈りの仏師 小川半次郎の生涯 祈りの仏師 小川半次郎の生涯
大岸 佐吉 (1990/01)
春秋社
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桃太郎神社と貞照寺(9)

1910(明治43)名古屋電灯臨時株主総会で福沢歓迎の電友会と、反福沢の愛電会の対立。加藤重三郎名古屋市長、上遠野富之助名古屋商業会議所副会頭、矢田三井銀行支店長は妥協を斡旋。福沢は常務取締役を辞任し事態収拾。
1912(明治45)名古屋電灯経営陣指名に大株主の福沢が一任される。福沢桃介の経営改革の特色は木曽川水系の水力開発を背景に、余剰電力の利用を意図した電力消費工業への多角化を進めた。
1913(大正2)志賀重昂、太田町(美濃加茂市)で講演の際、大田から犬山まで船で下り、峡谷美を日本ラインと名づける
1914(大正3)愛知電気鉄道社長および、名古屋電灯社長に福沢桃介就任。
1917(大正6)愛知電気鉄道、福澤桃介社長を退任、相談役に就任、名古屋電灯は製鉄部を設け電気製鉄に進出。
1918(大正7)木曾電気製鉄設立。製鉄事業と電源開発。
1919(大正8)木曾電気製鉄、木曾電気興業と改称。木曾電気興業、賤母(しずも)発電所竣工、大阪送電㈱社長に桃介就任。
1920(大正9)木曾電気興業、日本水力を大阪送電に合併して大同電力㈱と改称、桃介取締役社長に就任。
1921(大正10)名古屋鉄道㈱7月誕生 上遠野富之助常務取締役。
名古屋電灯と関西水力電気が合併し関西電気㈱発足。福沢は社長になるがすぐ退任し、以後は関西電気→東邦電力は福沢とは疎遠になる。
1923(大正12)読書(よみかき)発電所竣工、大同電力創業者福沢桃介の一河川一社主義
吉田初三郎、上遠野富之助の招きにより門弟前田虹映、稲垣満一郎と東京を出発。上遠野氏や鉄道省名古屋鉄道局長福富正雄の案内により不老閣に二泊、日本ラインを踏査、その風光に魅せられた。関東大震災で東京の自宅が灰燼に帰す。上遠野は日本ライン沿いの蘇江倶楽部を初三郎に提供。画室を開設。油屋熊八と全通したばかりの日豊本線を旅する。
1924(大正13)大井発電所ダム水路式
1925(大正14)上遠野富之助社長、犬山遊園地完成
1926(大正15)犬山橋~新鵜沼間開業、山田芳市支配人に就任。
1927(昭和2)日本八景に木曽川選ばれ日本ライン全国区に、神野金之助・山田芳市取締役に就任。
1928(昭和3)上遠野富之助社長病死、福沢桃介実業界から引退。
上遠野富之助 安政6年10月19日生~昭和3年5月26日死去
福沢、観世音を奉安する大遊園地建設を計画し、川の両岸を結ぶケーブルカーを設置するために現在の貞照寺、萬松園の敷地を購入。
1929(昭和4)桃太郎会発会式を犬山演舞場で行なう。招待客に巌谷小波、鳥井博士ら。初三郎が自ら会長として数万円を投じ、春秋二回桃太郎祭を行い「純日本一桃太郎主義」を鼓吹しつつ、桃太郎発生地を喧伝した。仏師小川半次郎、名古屋市二葉町の川上邸宅を初訪問。
1930(昭和5)桃太郎屋敷(桃太郎神社)。9月内務省が桃太郎神社の造営禁止を通達。世話役の初三郎が県に出頭し自発的に参拝を禁止、お札も発行しないことで落着。以後正規の手続きを踏み桃太郎神社を創建。小川半次郎、本尊の不動明王刻了。
1931(昭和6)7月30日本尊不動明王、木曾から貞照寺に奉還される。9月28日福澤桃介貞照寺地鎮祭臨席
1933(昭和8)10月28日 桃光院貞照寺 落慶入仏法要奉修。
1935(昭和10)3月油屋熊八死去。8月1日名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併。社長藍川清成、常務山田芳市。
1936(昭和11)4月吉田初三郎、犬山「蘇江画室」を離れる。

これまでの参考文献に加えて「 名古屋鉄道百年史」名古屋鉄道、1994、「祈りの仏師―小川半次郎の生涯」春秋社、1989、「福澤桃介翁伝」福澤桃介翁伝記編纂所、1939を参照。

福栄寺からの返事

福栄寺ご住職様
 お便りをさせていただいたのは、もうずいぶん昔のことになりますが、そちらの周辺で昭和20年9月26日亡くなった久野文雄という方のことをご存じであれば、教えていただきたいということです。戒名は浄光普照信士。もともと名古屋市東区白壁町の名家、久野氏の一族で、東京で銀行に勤めなどされておられたようですが、病を得て(結核?)昭和13年ごろにはすでにそちらで療養をはじめています。同封のコピーにあるような家系で、本来なら久野家の菩提寺、大須の久野山清安寺にお墓があるはずなのですが、早くに家督を継がずに隠棲したためか、平和公園の清安寺にはお墓はないようです。
 ご存知かもしれませんが、この久野文雄氏の弟は、久野豊彦という方で、文学者として名を残した方です。お兄さんの文雄さんも二冊本を書いていて、そのことで私が研究をしているのです。
 もし、なにかご存知のことがあれば、お教えいただければたいへんありがたいです。また、そのことはだれそれが良く知っているというようなことでも、お教えいただけると、私からうかがいに出向きます。久野家と関わりのあるお家が、お寺の近くにあったのではないかと考えております。

回答
当時私は学徒兵として特別操縦見習士官に合格 昭和十八年より昭和二十一年迄戦闘機操縦者として南方に出陣 南方各地を転戦しておりました 従って村の事もあまり知りませんでしたし当時の事を知っている人は皆亡くなられて誰にきくと云ふ事も出来ません 寧ろ私が現在村の先輩として知らねばなりませんが私の寺は真宗大谷派東願寺の末寺で他宗の事はよく知りません 大須の久野山清安寺様の事も全く知りません ただし昭和十三年頃篠田で療養をしておられて由 私の中学時代の事で久野さんと云ふ方がおられると云うふ事はきいております 音信はありませんでした 今ではその家族が何処へ行かれたか全く分かりません 先づはこんな程度の事しか申上げられません 本当に失礼を致しました 

桃太郎神社と貞照寺(8)

老来覇気なし     福澤桃介
 私も今は善人になって意気地がなくなってしまったが、以前は随分覇気横溢という風であった。われわれの仲間に杉山榮というエンジニアとしては、日本一の技師が居る。木曽川開発が今日のような大規模になったのはこの人の功績といってもよい。しかるに大井のダムを造る相談を始めた時には、流石の杉山君も尻込みの態で、
『ダムというのは剣呑です。日本ではまだやる人がない。木曽川をまず水路式でやって、その後にダムをやったらよい。その内に米国で研究ができてからやった方が安全だ』
という。けれども私はそれがやってみたくてしょうがない。偉いものを造ってみようという野心に燃えた。ダムを造るためには金もかかる。木曽川は、男伊達なら木曾の流れを止めてみよという歌があるくらい激しい流れだから、出来ないという議論がある。社長も乱暴だ早過ぎるという議論もあったが、なにかまわないというので始めた。もしダムが崩潰したら、そこへ身を投げて死ねばよい。そうしたら神様になれる。木曾義仲と同じく永久に神様になれるんだ。どうせ弱い身体で長い命ではない。長い命でないものなら、あそこの神様になった方がよろしいと思ったり言ったりした。それが出来て私は神様になれずにしまった。ところがこの間も鵜沼に行ってみると別荘が建っている。そこで思った。木曽川に大洪水があっても大丈夫だが、もし大井のダムが崩れては下流にある鵜沼は駄目だ。大井のダムが潰れては大変だ。万一の場合には舟をやとって逃げようということを考えるほど、私は臆病になってしまった。そのくらい弱くなったのだ。病気になってからすっかり金も名誉心も何もない。神様になるよりも長生きさえすれば、よいという弱い気になってしまった。これでも病気が良くなったら、またきつくなるかも知れない。
『福澤桃介翁伝』1939年2月 福澤桃介翁伝記編纂所

桃太郎神社と貞照寺(5)

「お伽噺の王国建設―桃太郎誕生地紀行―下」『名古屋新聞』1929年4月11日(愛知県図書館蔵)
「木曾川畔とわかった桃太郎の生地」『報知新聞』1929年3月8日(国会図書館蔵)
「桃太郎発祥地を探る」『報知新聞』1929年3月23日~27日(国会図書館蔵)
「大遊園地を福澤氏がつくる」『新愛知』1928年7月5日(愛知県図書館蔵)
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