フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

神々の眠る「熊野」を歩く

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)”世界遺産” 神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)
(2009/04/17)
植島 啓司、鈴木 理策=編 他

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熊野の磐座など、原初的な信仰を伺い知りたいという欲求に一番応えてくれた書物。
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熊野権現

一遍聖絵 (岩波文庫)一遍聖絵 (岩波文庫)
(2000/07)
大橋 俊雄

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一遍が熊野に詣でて、熊野権現に出会った下りである。

「 文永十一年のなつ、高野山を過て熊野へ参詣し給ふ。山海千重の雲路をしのぎて、岩田河のながれに衣の袖をすすぎ、王子数所の礼拝をいたして、発心門のみひはにこころのとざしをひらき給。藤代・岩代の叢祠には垂跡の露たまをみがき、本宮新宮の社壇には和光の月かがみをかけたり。
 古栢老松のかげたたへたる、殷水のなみ声をゆづり、錦徽玉皇のかざりをそへたる巫山の雲、いろをうつす。就中、発遣の釈迦は降魔の明王とともに東にいで、来迎の弥陀は引接(いんじょう)の薩埵をともなひてにしにあらはれ給へり。ここに一人の僧あり。聖すすめての給はく、『一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給べし』と。僧云、『いま一念の信心おこり侍らず、うけば妄語なるべし』とてうけず。ひじりの給はく、『仏教を信ずる心おはしまさずや、などかうけ給はざるべき』。僧云、『経教をうたがはずといえども、信心のおこらざる事はちからをよばざる事なり』と。
 時にそこばくの道者あつまれり。此僧、もしうけずばみなうくまじきにて侍りければ、本意にあらずながら、『信心おこらとんうけ給へ』とて、僧に札をわたし給けり。これをみて道者みなことごとくうけ侍りぬ。僧はゆくかたをしらず。
 この事思惟するに、ゆへなきにあらず。勧進のおもむき、冥慮をあふぐべしと思給て、本宮証誠殿の御前にして願意を祈請し、目をとぢていまだまどろまざるに、御殿の御戸をおしひらきて、白髪なる山臥の長頭巾かけて出給ふ。長床には山臥三百人ばかり首を地につけて礼敬したてまつる。この時、『権現にておはしましけるよ』と思給て、信仰し、いれておはしけるに、かの山臥、聖のまへにあゆみより給ての給はく、『融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし』としめし給ふ。後に目をひらきてみ給ければ、十二三ばかりなる童子百人ばかり来りて、手をささげて、『その念仏うけむ』といひて、札をとりて『南無阿弥陀仏』と申ていづちともなくさりにけり。」(第三、23~25頁)

熊野詣

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)
(2004/12/11)
五来 重

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「山陰の東郷池に面する松崎町浅津は墓のない村で有名である。私のみたところでは一ヶ所だけ墓地があったが、これは特別の家柄だそうで、他の数百戸は湖岸の火葬場で火葬すると、お骨も灰も一切湖中に流して墓をつくらない。近世に真宗がはいって火葬がおこなわれる前の墓もないところをみると、おそらくもとはすべて流したのだろう。というのは、やはり湖畔の松崎町引地の九品山大伝寺で彼岸会に位牌や卒塔婆を船にのせてながすが、この船も補陀洛渡海船に似ており、すこしはなれた青谷(あおや)の岬には嘉慶三年(1389)の年号ある普陀落塔があると、故田中新次郎氏が報告している(『因伯の年中行事』)。(P78)

古文書返却の旅

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)
(1999/10)
網野 善彦

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歴史学者もたいへんなもんだな、と思うと共に網野史学がなぜ説得力をもっていたのかが、よくわかった。

悠悠自適 老候松浦静山の世界

悠悠自適―老侯・松浦静山の世界 (平凡社ライブラリー (421))悠悠自適―老侯・松浦静山の世界 (平凡社ライブラリー (421))
(2002/01)
氏家 幹人

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『甲子夜話』を通して見た江戸の社会史。勝小吉も同じ本所だったんだ。
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