フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

新宮大逆事件墓碑巡り

南谷墓地 高木顕明顕彰碑
 12月で営業を終了するというサンかつうらに泊り、翌日は南谷墓地へ、大逆事件関係者の墓めぐりをする。まず、車を停めた所にあった案内板で高木顕明の墓を訪ねる。
「高木顕明師顕彰碑
 南無阿弥陀仏は真に御仏の救済の聲である。闇夜の光明である。絶対的平等の保護である。智者にも学者にも官吏にも富豪にも安慰を与えつつあるが、弥陀の目的は主として平民である。愚夫愚婦に幸福と安慰とを与えたる偉大の呼び聲である。

 嗚呼我等に力と命とを与えたるは南無阿弥陀仏である。

 諸君よ願くは我等と共に此の南無阿弥陀仏を唱え給い。今且らく戦勝を弄び万歳を叫ぶ事を止めよ。何となれば此の南無阿弥陀仏は平等に救済し給う聲なればなり。
                 高木顕明著「余が社会主義」より」
 また、真宗大谷派の案内板もあった。
「高木顕明師を顕彰する
 浄泉寺元住職高木顕明師は、1910(明治43)年、いわゆる幸徳事件(「大逆事件」)による弾圧に際して、大石誠之助、成石平四郎、峯尾節堂らと共に無実の罪に連なり、ついに獄中において生涯を閉じられた人である。
 「大逆事件」は、社会主義を危険思想とみなした明治国家が、それを根絶しようとして24名に死刑判決を下し、即座に12名に刑を執行した極めて意図的な事件であった。判決の翌日、顕明師をはじめ12名は無期懲役に減刑されたが、師は全く無実の中に、1914(大正3)年6月24日、秋田監獄において自死されたのである。
 顕明師は、1864(元治元)年愛知県西春日井郡に生まれ、1899(明治32)年浄泉寺の住職となり、差別と貧困のただ中にあった当時の被差別者に同苦同悲して、共に真宗の教法に生きようとした。
 日露戦争(1904年)が起こると非戦を唱え、新宮に置娼問題が起こると廃娼を訴えたのも、ひとえに、誤れる国家主義を批判し仏法に生きようとしたためである。まさしく師は、真宗大谷派の僧侶として、部落解放や非戦平和を課題として先駆けの人であった。しかし、師を理解する人は数少なく、当地の社会主義者、キリスト者たちと深く交わるところとなった。
 やがて、そのことによって師が「大逆事件」に連座するや、大谷派は1910(明治43)年11月10日住職を差免し、翌年1月18日死刑判決と同時に擯斥に処した。顕明師の遺族もまた新宮を追われ、苦難の道を歩まれたのである。
 しかしこのたび、時の宗門当局が国家に追随して行った師への遺憾なる行為とそれを今日まで放置してきた宗門の罪責を深く慙愧し心から謝罪して、1996(平成8)年4月1日、住職差免及び擯斥処分を取り消した。
 顕明師の墓は、遺族によって浜松に建立されていたが、師の復権を機に顕明師と遺族が心を寄せるこの地に移転した。
 顕明師死して80余年。今ここに顕明の碑を建立す。
 碑文は、顕明師の残した唯一の文「余が社会主義」による。師の真宗信仰の表出であるこの遺文は、念仏者としての平和と平等への真摯な願いに満ちている。
 我々はここに、一人の念仏者たる高木顕明師の事績に学び、その願いを心に刻んで顕彰して行くことを決意するものである。
 1997(平成9)年9月25日
                     真宗大谷派(東本願寺)」
大石誠之助墓 峰尾節堂墓
 大石誠之助の墓は、イオンの方に戻り、改めて墓地の山に登ると、いわゆる上の寺の辺りで案内板を見つけた。それに従って行くと大石家の墓地があった。
「大石誠之助(1867~1911)
 慶応3年、紀伊新宮仲之町に生まれる。明治17年大阪で洗礼を受ける。23年渡米28年オレゴン州立大学を卒業。29年新宮仲之町で医院を開業、30年頃から無門庵、禄亭などの号で、情歌、狂歌、狂句を発表36年禄亭永井として情歌の宗匠となる。32・33年シンガポールやインドで伝染病など研究、この頃から社会主義の書物を読み始める。34年から医院再開、船町に移る。
 明治37年非戦論を説き、社会主義雑誌への投稿を始める。幸徳秋水らの社会主義者も新宮を訪問、交友を温めるとともに資金的援助も惜しまなかった。一方で「家庭雑誌」にも投稿、西洋風合理性活を目指して、衣食住についても発言。
 43年、沖野岩三郎と「サンセット」を創刊、その直後「大逆事件」の廉で逮捕処刑された。「嘘から出た真」の言葉を残して、絞首台上の露と消えたと伝えられる。
 現在の研究では、明らかに国家権力による冤罪であることが証明されている。墓碑の揮毫は堺利彦の手になる。」
(案内板から)
 上の寺の方へ戻ると、木陰に峯尾節堂の墓があった。
新宮歩楽歩楽マップ南谷墓地案内


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