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フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

陸奥国総社宮

右各社 陸奥総社宮 左各社
「惣社とは何か
 国庁神社の場合、(中略)一国内の神々を迎える、いわば「惣座」であったことにかわりはない。そういえば肥前国(佐賀県)の国庁跡近くには、文字通り「惣座」という地名があり、そうした理解を助けてくれる。
 惣社は、このような惣座の役割を果たしていた国庁神社が母胎となったもので、条件さえととのえばいつ惣社と呼ばれても不思議ではなかったのである。おそらく時期が下るほど、国庁神事のなかの朔旦神事の比重が大きくなったことが、惣座の惣社化、すなわち惣社成立の直接の契機になったものと思われる。巡拝の煩を省くためというのは、あとから付けられた理由といってよいであろう。したがって表向き惣社といわれなくても、国庁裏神社や府中神社の実体は、惣座=惣社なのである。
 こうした経緯で生まれた惣社であるが、それがもつ機能を現存惣社のなかでもっとも端的に示してくれるのが、多賀城跡にある陸奥国惣社であろう。鳥居の左右に国内三十一郡の神々の名が書き上げられており、いかにも惣社だと実感させられる。」
(村井康彦『出雲と大和』序7~8)
陸奥総社本殿
「 醍醐天皇の延喜年中勅して全国より由緒正しき社、3132座を神名帳に載せらる、内188座を大社とし、他を小社とす、之を延喜式内社と称し国司に命じて幣帛を供進せしめしが後に参進の便を図り之を各国府の地に合祀して総社という、当社は即ち陸奥国100座を、合祀する陸奥総社なり、奥州留守職伊沢氏三千刈田の斎田を寄せ、後村上天皇の未だ陸奥の大守として多賀の国府に、在せし時、神護祈念を当社に懸け給う、伊達氏亦政宗公以来歴世祈願の事あれば藩主自ら社参するを例とせり
 当社は此の如く多賀国府と不可分の史跡にして東奥鎮護の大社なり。」 (三原良吉誌す)(案内板から)
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