フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

船上山神社奥宮

船上山行宮(かりみや)之碑
東坂道を登り切った所に行宮(かりみや)之碑がある。そこからかなり奥に船上山神社があり、そのさらに奥に奥宮がある。
船上神社奥宮
奥宮の周りには行宮跡と智積寺跡の案内板が立っている。その文面は以下。
「後醍醐天皇行宮跡
国指定史跡 昭和7年5月3日指定
船上山行宮跡
 後醍醐天皇は元弘三(1333)年の船上山合戦に勝利した後約80日間この地に行在されて政治も執られた。そして、昭和7年5月には『船上山行宮跡』として国指定の史跡となった。しかし当時行宮跡は確定できずに頂上一帯が指定区域となった。
 その後第二次世界大戦等により研究が途絶えたが、近年地元に残る『伯耆民談記』『伯耆民諺記』並びに智積寺関係書文書等地元教育委員会、郷土史家が中心となり研究を行った。
 この結果『伯耆民談記』に見られる『後醍醐帝御座跡は、本社より乾に當りて三丁計り去り東西十四丁、南北十五丁の地あり、境内廣平にして辰巳の方に門の跡あり』よりこの屋敷跡を、後醍醐天皇が船上山に行在されたときの『宮跡』とする説がなされている。
 平成2年11月1日   文化庁」
「智積寺ちしゃくじ本堂跡
 智積寺は、本尊の地蔵菩薩や脇仏の『墨書胎内記』『船上山寺内分限記』などから、享禄三(1530)年に十三の寺坊を持つ寺として創建されたことが知られている。その後天文十三(1544)年の尼子氏と山名氏の戦乱により焼失した。これ以後本堂は再建されていない。天文二十二(1553)年には本尊と脇仏を船上山三所権現として祀るために尼子晴久が現在の船上神社本殿の位置に社を造営した。この時の寺坊は六坊となっていた。その後、永禄七(1564)年にも焼失して天正二十(1592)年に毛利方南条元忠らが修復している。 しかし、智積寺は文禄年間(1592~1595)に太閤検地により寺領の没収にあい船上山三所権現を残して山下に離散した。
 当時の本尊・脇仏は現在は竹内の智積寺に安置されている。
     琴浦町教育委員会」
船上山上道 船上山上寺坊跡

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