フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

西山村騒擾

西山春日神社狛犬
「 (明治)六(1873)年十二月におこった三重県阿拝郡西山村の事件は、新しい性格の講社の設立をめぐる村内での対抗が、騒擾事件にまで発展した事例である。この村には、これより十年以前に尾張国から御岳信仰が伝えられ、御岳講ができていたが、他方、副戸長河野喜三右衛門と教導職一四級試補坂本鞘之進を中心に『維新講』ができて、御岳講を圧倒する情勢となった。こうした情況のもとで三五郎という者が神がかりするようになり、病気直しによって村人の帰依をうけたが、十二月二十六日には集会中に氏神春日神が三五郎に神がかりして、『維新派ノ徒汚穢忌マズ、我ヲ蔑シ我ヲ涜ス。我去テ天ニ昇リ、我茲土ヲ泥海ニセン』と告げ、また河野と坂本が村内にいる限り氏子を冥護しないとも告げた。そのため、村人は坂本を殴打し河野宅を打ちこわして、二百余人が氏神春日社にたてこもり、とり押えにむかった警官などに薪火木石を投げて抵抗し、二人を殺し五人を傷つけた。そのあと、近村の者もふくめて三、四百名が第九大区第二小区事務取扱所に迫り、騒動は近村にまで波及しそうな情勢となったが、上野支庁所属の士族五十余名などが動員されて、鎮圧された。」
(安丸良夫「近代転換期における宗教と国家」『宗教と国家』から)
「 十二月廿六日集会拝神中、三五郎氏神春日神降ルト唱ヘ、維新派ノ徒汚穢忌マズ、我ヲ蔑シ我ヲ涜ス。我去テ天ニ昇リ、我茲土ヲ泥海ニセント云。」
(「内務省ヘ届 明治七年一月七日」国立公文書館内閣文庫蔵『三重県史料』から) 
 明治になっても、神が憑くということが起こる、ここの神は相当強烈だったようだが、これまでの由緒やら伝承やら見てもしきりに祟ったり、悩ましたりしていたことに気が付く。
「木生神社(木尾権現)
宣化天皇の御代(535~539)に大山の頂を宮処と定め木之久々能智命・名山主真剣荒魂の二柱を祭神とし又神の使は狼であると云うも由緒不明なり。
(三国地誌 西山考証)
西山村字魔舘谷は真剣の頸を堕した処(首堕瀧)で、その多くの神霊は魔となって人々を悩ましたるに、その地を魔谷と云う、その魍魎は多くの村民を煩わしたので山獄の頂に真剣の霊を祭り神木を盗んだ悪心を悔い善に帰りたいと願う荒魂と共に木の神をまつり社の称号を木生と号した。
社を斎したが祭礼が行われなかったので村民が多く煩った
これが神の祟りと又社の東北阪を通る馬も多く煩うをもって東向なる祠を南に向けて弘治二(1556)年より始めし祭り(ナスビ祭)を今尚執り続けている。」(由緒書から)
 真剣という山主が神木を盗み、首を切られたが魔になって祟ったので木生権現として祀る。
「寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」は木尾権現・石上いしがみ明神・佐相大山さそうおおやま神・熊野・粟島あわしまの右五祠は一祠として春日社に合祀と記す。石上社は西出下にしでしもにあった。佐相大山神は、西山村を支配した熊野氏子孫佐三左衛門が村民を苦しめ、村民は殺して谷山の大山祇とともに祀ったものという。」(『三重県の地名』から)
 村長?だった孫佐三左衛門を村民が殺して祀っている佐相大山神を合祀もしている。
西山春日神社境内

 
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