フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

天久宮

天久宮鳥居 天久宮拝殿
 識名園から歩いて壷屋へ向う。40分程だった。牧志公設市場などを見て、花笠食堂で昼食。壷屋陶器博物館などにも入る。おもろまちまでゆいレールで移動し、泊町の天久宮を探す。
「天久宮(あめくぐう)[現]那覇市泊三丁目
 聖現せいげん寺の東にあり、琉球八社の一。祭神は本宮に伊弉冉尊、相殿左に速玉男尊、右に事解男尊を奉祀(八社縁起由来)。開基は成化年間(一四六五―八七)と伝える。天久権現と通称し、「琉球神道記」「琉球国由来記」「琉球国旧記」「球陽」「遺老説伝」などに概略以下のような開基伝承が載る。往古銘苅みかる村に銘苅翁子という者がいた。ある日の晩、天久の野原に山上から気高い女人が威儀正しい法師を送って下りてきた。あるとき翁子が「法師は何人なるや、女人は何人なるや」と法師に尋ねると、法師はこの地に住む者で、女人は山上の森に住む者だというが、常人の行動とは思えない。洞内に入るかと思えば、途中で消えてしまうときもある。翁子がそのことを王府に奏上したところ、国王は役人にその虚実を調べさせた。役人が洞に向かって香をつまみ拝んだところ、自然に火がついたので真実の証であることを知る。のちにこの地に社殿を造営したところ、「我は熊野権現なり。衆生利益のために顕れるなり。女人は国の守護神、弁財天なり」と神託があったという。「中山伝信録」も天久山に洞があり、洞前には観音閣があること、扉は閉ざされ無住であることなど天久宮に言及している。
 「球陽」尚敬王二二年(一七三四)条によると、天久宮はもとは聖現寺の寺外北方の地にあったが、同年聖現寺境内に移建されたとある。同書尚育王一〇年(一八四四)条には、当宮の祝部・内侍や泊とうまい村の人士が、物忌みして一夜を過ごす斎宿の典礼を、聖現寺に止宿しているフランス人(宣教師)の妨害があることを懸念して長寿ちようじゆ寺で執行したことがみえている。当宮の祝部の品位は従七品で社禄役俸が二石、内侍(巫女)の役俸が一石五斗、宮童が従九品で二斗五升であった(神社寺院調要概)。境内の広さは一千一六三坪で、長方形の境内中央部に拝殿跡の基壇、その前面には桁行六・三六メートル、梁間四・四メートルの拝殿残礎があり、一段高い本殿は社殿が三間二面、入母屋造本瓦葺で、桁行三・九メートル、桁間二・四メートル、前面に深さ一・四九メートルの向拝があり、典型的な琉球神社建築とされる。」(『沖縄県の地名』から)
天久宮龍神 天久宮御嶽
 これで2月24~27日に及んだ沖縄旅行は終了。琉球八社の内那覇市内の神社はこれですべて行けたことになる。
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