フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

観光タイムス 1931

昭和六年十月十五日 
観光タイムス 第二十六号(木曜日)

日本ラインを挟んで相對する桃太郎社と鵜沼不動・貞照寺

観光タイムス 
副社長 前田虹映

日本一の英雄児、お伽の國の王様、仁慈と任侠と武勇の神として日本ライン河畔栗栖のほとりにまつらるる『日本一桃太郎社』の存在は桃太郎誕生の聖地と共に、今では日本ラインになくてはならない新名所となり、日本一桃太郎会が催す春夏二季の『桃太郎まつり』は對内的は勿論對外的にも新興日本のゆゆしき祭りの一つとして報導され、会長吉田初三郎画伯が謹筆せられたる『桃太郎尊像』の一幅は、全国数萬の会員が一家円満幸福の守護神として、従来悪鬼退治のシンボルとせられたる支那の鐘鬼にとって代り健康そのものの如き美少年ぶりを発揮しつつ、子供の神と崇められてゐる次第であるが、茲に其の境内並に桃太郎屋敷遊園地とは、日本ラインの川一重を距てし對岸鵜沼の地に、今回新しく鵜沼不動尊貞照寺といふのが建立され、去る九月廿八日賑々しい上棟式が挙行された。
是れは往年の名女優川上貞奴氏こと川上貞子女史の発願によるもので、既に六間四面、向背つきの堂々たる本堂、石階庫裡等は完成され、三間巾の参道は松林を縫うて街道より本堂へ導いてゐるので茲一両年のうちに此の境内が完成されるなれば、是亦、桃太郎社に劣らぬ日本ライン沿岸の新名勝となるであらう。
所で此の桃太郎社と貞照寺との間には実に不思議な因縁がひそんでゐる。勿論『貞照寺』の寺号は貞子女史の発願を意味したものであることは直に諒解出来る所であるが、其の貞子女史の背後に財界の傑物福澤桃介氏あること是亦直に諒解出来ることである。
さて其の川上貞子女史と、日本一桃太郎会会長吉田画伯とは、二十数年の昔に於て、なみなみならぬ面識の間であったといふのは、画伯が未だ初三郎式鳥瞰図を創生せず、画道修業の最中、現松竹会社の両巨頭白井松太郎、大谷竹次郎両氏泉鏡花氏、廣津柳浪氏、其他数氏の後援を得て演藝文庫社を創立、當時白面の一青年が其の副社長として関西の劇壇に活躍演藝報導の任に當り、屡々南坐其他の楽屋内で、故川上音次郎氏、貞奴氏とは深き面識の間柄であった。其の當時の画伯のスケッチ、其他演藝文庫上に掲載されし作品は、今や画伯作品の蒐集家間に於て、頗る珍品として秘蔵されてゐるといふ。
爾来烏兎匆々として廿有余年、當年の名女優貞奴氏は舞台を隠退して余生を文化と舞踊の事業に終始され、吉田画伯亦『近世名所圖繪』を創始して其名を天下に唱はるるに至った。―かくて両者相見えざること年あり、はからずも今回、画伯が主宰さるる桃太郎会の総本部『日本一桃太郎社』のまん向へに、川を距てて貞照寺建立といふいとも奇しき因縁を結ぶこととはなったのである。
・上棟式の當日、画伯は此の奇しき因縁に感激して、自ら貞照寺のために『石燈籠』奉献の儀を約すべく、自動車をとばして参列されたのであったが、忽ち画伯をみとめし貞子女史は、往年の追懐やみがたきものあるが如く、直に傍なる福澤氏に画伯を紹介せられ、福澤氏も亦當年の物語りに興深くいと丁重な挨拶が両者の間に行はれたことであった。
更に今一つ、偶然にも面白い暗合は、其の貞照寺のマークであった。― 三線の円を以て囲める中に桃の実を表はせるもの、即ち川上の『川』と桃介氏の『桃』とを配せるものなれど、是れは正しく川上より桃の流れ来りし桃太郎誕生地の伝説と相一致するもので、此の余りにも奇しき偶然の暗合に、画伯も、福澤氏、貞子女史も興いよいよ深く、相提携して両岸に遊園地開発の儀を賛同せられた次第であった。日本ラインの中流、富士瀬のほとり、両岸に相對峙して新名勝の出現する日も遠い将来ではあるまい。
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