フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

和賀江島

和賀江島01 和賀江島02
「和賀江島
  和賀トハ今ノ材木座ノ古名ニシテ此ノ地往昔筏水運湊ノ港タリシヨリヤガテ今ノ名ヲ負フニ至レルナリ和賀江島ハ其ノ和賀ノ港口ヲ扼スル築堤ヲ言ヒ今ヲ距ル六百九十餘年ノ昔貞永元年勧進聖人往阿弥陀仏カ申請ニ任セ平盛綱之ヲ督シテ七月十五日起工八月九日竣功セルモノナリ
                         大正十三年三月建 鎌倉町青年団」(石碑から)
 光明寺前の浜辺を西に近づいていくと、この日は13時30分が引き潮だったので、だんだんに和賀江島が見えてくる。海岸の小高い岩に鎌倉町青年団が建てた石碑が和賀江島の由来を記している。
和賀江島と江ノ島 和賀江島石碑
「 北条泰時が、こうした幹線道路の整備に力を尽くしたのは、今風の言い方をすれば都市鎌倉のインフラ整備といえる。その一環として、彼は港湾の整備にも意を用いた。すなわち、和賀江島港の建設への協力である。
 現在の和賀江は満潮時には潮に洗われて、昔日の繁栄した良港のおもかげはない。しかし、干潮時には、唐船の着岸したとおぼしき跡が現われる。中世の和賀江島は、鎌倉の内港として中国からの舶来品(陶磁器、銅銭など)、材木などが陸揚げされ、市場がたつ一大商業地であった。それは1232(貞永元)年に往阿弥陀仏による和賀江島の港湾整備によって唐船も着岸可能になって以来のことである。この和賀江島の築造にも北条泰時は大いに協力した。」
(『中世都市鎌倉を歩く』P54)
 和賀江島が見える所まで来ると、稲村ケ崎の向こうに江ノ島が見えるようになった。干潮時刻まで調べてやってきた、今回の大目的はこれで果たすことができたのだ。


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