フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

平有盛(たいらのありもり)墓

有盛墓山道 有盛墓大木 有盛墓切株
 有盛神社からさらに上ると、巨木が転がっていて、さらに大きな切株が見える。
「平家伝承
  奄美には平家伝承があり、大島の龍郷町戸口に平行盛の墓、名瀬市浦上に平有盛の墓、瀬戸内町の加計呂麻島の諸鈍に平資盛の墓と伝えられる場所がある。有盛の墓と伝えらる場所には文化13年 (1816)に当時大島代官であった肥後翁助により墓碑が建てられている。資盛墓碑は文政11年(1828)に当時付役であった田代宗左衛門が建立、行盛墓碑は文政13年(1830)に瀬戸口祐左衛門という人物が建立した。行盛墓碑によると、瀬戸口祐左衛門は、文政11年(1828)3月に村の古老の案内で行盛の墓と伝えられる塚に詣でたが、草が生い茂り荒れ果てた様子に心を痛め、石工に命じて墓碑をたて、石垣をめぐらせたという。瀬戸口祐左衛門が行盛の墓に詣でたのと同じ文政11年(1828)の11月に建立された資盛墓碑には、草がおいしげる中に墓を認め、地元の人々と相談し塚を復旧したという経緯が記されている。」
「『南島雑話』の構成と成立背景に関する一考察 河津 梨絵」「史料編集室紀要」第29号、2004、P20)
有盛墓地 有盛墓石 有盛墓燈籠
 ただ何となくカメラを見ると、レンズのオートフォーカスのスイッチが切れていた。どうりでピントが合っていない写真ばかりだ。
「浦上城跡 うらがみぐすくあと
[現]名瀬市浦上
  グスク跡。浦上川下流とそれに合流する前勝まえがち川に挟まれた、北東から南西へ延びる細長い尾根の標高四〇メートルを最高地点とする。当城は南北一〇〇メートル・東西九〇メートルで、下から四段目の南北一五メートル・東西三五メートルの平坦面がおもな曲輪で、その南側と北側は崖、東側と西側は小さな空堀で区切られている。空堀はさらに東に三本、西に二本ある。主曲輪の下の曲輪がこれに次ぐ曲輪である。主曲輪までが有盛ありもり神社の境内になっており、下から二番目の曲輪に社殿があり、主曲輪に平有盛の墓がある。ここでノロの祭が行われた。当城の有盛は有屋ありや城の按司(アジ)に勝ったというのをはじめ数々の伝承がある。」
(『鹿児島県の地名』から)
浦上城縄張図
(浦上城縄張図、當眞嗣一「グスクの縄張りについて」(上)「沖縄県立博物館紀要」第18号から)
 有盛神社と有盛墓地は、じつは浦上グスク跡なのだ。
スポンサーサイト

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hottalab.blog103.fc2.com/tb.php/817-d323d005
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad