フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

新坂と琵琶湖岸

新坂道 新坂から湖岸 新坂と米蔵
 分岐点から下って行くと、琵琶湖岸に降りる。案内板があり、
「新坂と米蔵
 ここから、山向こうへ越える道を新坂とよびます。米や切石などの物資を運ぶために、明治8年に地元の人たちの手によってつくられた道です。その当時は、丸子舟とよばれる船に積み降ろしされる米を保管するために米蔵がこのあたりに建てられていました。湖岸には、当時の繁栄を忍ばせる石垣が残っています。」
とある。つまり、今降りて来た道が新坂なのだ。
有漏神社まで200m 山梨子遠望 湖岸石垣 湖岸石垣2
 案内板の近くに道標があり、「有漏神社まで0.2km」という表示。湖岸に沿って石垣もある。湖の向こうに見えるのは山梨子集落であろう。
「<大字西野を中心に古文書、過去帳等をずいぶん調べたが、阿曾津という名前は出てこない。また江戸時代には、木戸ヶ浜、片山、山梨子がこの地域の物資の集積地であり、特に、彦根藩への米は、船積みのために木戸ヶ浜へ集められたという。このように阿曾津は、近世以降は全く知られなくなったようである。>」(今井清右衛門氏の談 用田政晴「琵琶湖の水没村伝承」から)
「集落の南端宮河原みやがはらに有漏うろ神社が鎮座。古来湖上舟楫の神として堅田漁師からも崇敬されたという。二月一六日にオコナイを執行。祭儀には氏子は舟で参拝する。」(『滋賀県の地名』から)
 これらによると、ここらは宮河原といわれた場所で、石垣や神社も明治くらいのもので、阿曾津との直接のつながりはないようだ。用田論文によると、「阿曾津の湖底、水深およそ8mから10数mには石積みと石臼が遺存することから村とおぼしき遺構が眠っていると考えられ、かつそれが湖中に没したのは近世以前のことと類推することができる。」とのことである。
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