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フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

英彦山大門筋

奉幣殿近くの修験道館は閉まっていたので、英彦山のメインストリート大門筋を降りて行く。道の横には山伏の住居、坊家の跡が解説板と共に残っている。幾つかをここに記す。
大門筋 立石坊跡 岡坊跡 福寿坊跡
「立石坊(たていしぼう)跡
 元弘3(1333)年、後伏見天皇の皇子と伝えられる安仁(助有法)親王が、彦山座主に迎えられたとき、側近の武士として随行した家系の坊です。当時、座主院は彦山神領の筑前上座郡黒川院(甘木市)に造営されましたが、天正9(1581)年に大友宗麟の彦山来襲に抵抗するため、座主と共に彦山へ移住しました。江戸時代からは検使として山内の治安に当りました。なお、彦山を英彦山と記すのは1729年以後です。」
(案内板から)
「岡坊(おかのぼう)跡
 江戸時代の前半は天台宗義の山伏(衆徒方しとがた)、以後は峰入の大先達(行者方)や、神幸祭を司祭する神道系の山伏(惣方そうがた)となりました。幕末の英彦山では、有力な山伏たちは尊王攘夷派の長州藩を支援し行動しましたが、佐幕派の小倉藩はその行動を抑えるため、文久3(1863)年から明治維新まで藩兵で英彦山を制圧しました。その非常事態下の山内で政祭を取り仕切った坊として記録されています。」
(案内板から)
「福寿坊(ふくじゅぼう)跡
 中世末の祭祀記録にある古い坊です。英彦山(彦山)で「坊」といえば、山伏の家(坊家)またはその家に住む山伏のことを指します。この坊は江戸時代初期までは天台家系の山伏(衆徒方しとがた)でしたが、それ以後は幕末までは神道系の山伏(惣方そうがた)となり、神幸祭や御田祭などを司祭しました。山伏たちが帰依した修験道は神仏習合の宗教でしたから、神道系山伏、仏教系山伏のどちらにも転向が可能でした。」
(案内板から)
顕揚坊 泉蔵坊 知足院 智楽院
「顕揚坊(けんようぼう)
 明治維新後に山内の玉屋谷からここへ転住してきた坊で、江戸時代から神道系の山伏として、神幸祭や御田祭(おんたさい)などを司祭しました。屋敷内の庭園は雪舟を慕った室町時代末期の禅僧雪村の築庭と伝えられています。中世から山内では茶を栽培したのでほとんどの坊家は茶室や庭園を設計しました。また、坊家内の間仕切は杉の板戸を多用したので、それに書画を描く達人たちが諸国から彦山に集まりました。」
(案内板から)
「泉蔵坊(せんぞうぼう)
 中世末の祭祀記録にある玉屋谷の坊でしたが、明治以後にこっちへ移住しました。概ね幕末まで天台宗系の山伏として霊仙寺大講堂に出仕しましたが、大先達の経歴もあります。かつて京都の聖護院が彦山を末山と主張したことから、彦山座主は幕府に訴訟し、元禄9(1696)年に天台修験別山と公認されました。その訴訟費など調達のため、大講堂(奉幣殿)境内の大杉を売却しようとしたとき、泉蔵坊は私財を投じてこれを残しました。平成3年の台風で倒木しましたが、樹齢800年の泉蔵坊杉とよばれ、英彦山神宮奉幣殿の境内に巨幹の株が残されています。」
(案内板から)
「知足院(ちそくいん)
 古来、英彦山(1729年以前は彦山と記しました)には、天台宗の霊仙寺に出仕する清僧(非妻帯)寺院が十二院あったそうです。知足院はその一院でしたが江戸時代の中頃から住職が妻帯し、幕末まで世襲の天台宗系山伏(衆徒方)として、霊仙寺大講堂(奉幣殿)で如法経会(写経)や釈尊誕生会などの修行と法会を司祭しました。明治以後に山内の別所谷から現在の鬼石坊跡に転住しました。」
(案内板から)
「智楽院(ちらくいん)
 古来、英彦山には天台宗の霊仙寺に出仕する清僧(非妻帯)寺院が十二院あったそうです。智楽院はその中の一院でしたが、江戸時代の中頃から住職が妻帯し、世襲の天台宗系山伏(衆徒方しとがた)となり、幕末まで坊家と同じように檀家を諸国に持ち、そのお布施を一家の生活や、山内の祭礼・法会の資金に当てました。英彦山の役僧を勤めた家系で、明治以後に山内の西谷から現在の池坊跡に移住しました。」
(案内板から)
英彦山会所跡 国史跡英彦山02
「英彦山会所(かいしょ)跡
 英彦山会所は、大きな建物で、修験道の時代に幕府の巡検上使を初め、参拝してきた諸藩の役人や知名の人を、接待したり、宿泊させた所です。
 明治以降、英彦山権現を祭った霊仙寺は、英彦山神社となったので、会所は一時社務所となりました。」
(案内板から)
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