フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

御師森新

御師森新南向 御師森新北向
伊雑宮のすぐ北に「御師森新」という看板を出した家がある。
「伊雑宮の御師(おんし)
 御師は祈祷に従う神職で、神札を配り参拝者の案内や宿泊の世話をしていたが、明治4年に廃止されました。
 伊雑宮の御師は、江戸時代に東海地方を中心とし近畿や関東方面にも広く活動していた記録が残されております。
 その一人、森新左衛門の名前を屋号で継ぐ森家が御師の家「森新」を開き、残された資料を展示・公開しています。」
(案内板から)
「 特定の社寺に所属し、各地にお祓大麻(神札)などを配って信仰を広め、参拝者をその社寺に誘導する人々を「御師」(おんし・おし)と呼びました。御師はまた参拝者を宿泊させるほか、神楽や料理でもてなし、参拝の案内も行っていました。
 御師は元来祈祷師の略で平安時代中期にまず寺院に出現しましたが、神社で祈祷を行う比較的下級の神官も御師と呼ばれるようになり、その後次第に神社に限られてきました。早く出現したのが、熊野三山の御師で、平安時代末期、盛んになった朝廷や貴族の熊野参詣時に祈祷や宿泊の便をはかりました。そして、中世後期から伊勢御師が全国的に活動をはじめ、最も多いときで内宮に271人(安永6年)、外宮に615人(享保9年)を数えたと記載されています。『宇治山田史 上巻』
 同様に、規模は小さいながら伊雑宮にも御師がいました。」
(志摩市教育委員会『伊雑宮の御師たち』から)

上之郷の石神

上之郷石神幡 上之郷石神入口 上之郷石神鳥居
倭姫命遺跡からさらに山の方に行くと、石や木に注連縄がかけられ社殿のない石神として祀られている。
「このあたり一帯はもともと伊雑宮と密接な関係にあり、かつてはその摂社末社のごとく多くの神社(社、祠、磐座、神籬、塚など)が密集していたことがわかっているからである。それらはその土地の氏神・産土神を祀ったもので、伊勢・志摩一帯の古い信仰の痕跡がそこに表れていると言っていいものだった。」(植島啓司『伊勢神宮とは何か』P40)
上之郷礼拝所 上之郷石神
上之郷散策マップ
 すぐ下には旧村社跡、谷ノ神社の看板がある。
「 それから、上之郷の谷ノ神社に向かう。そこもちょっとわかりにくいところにあって、なかなか気づきにくいかもしれないが、そんなに山奥というわけではなくちょっとした脇道を進んだところにある。谷ノ神社は神籬の跡がかすかに認められるものの、もはや原形をとどめないほど荒廃している。比較的大きめの磐座に注連縄が巻いてあるのに気がつかなければ、そこがかつての信仰の対象だったとは考えられないだろう。」(植島啓司『伊勢神宮とは何か』P49)

上之郷

倭姫命鳥居 倭姫命祠
「上之郷のまち並み
 上之郷は昔から伊雑宮の鎮座地として発展し、さらに伊勢道・鳥羽道・的矢道・先志摩道など交通の要衝でした。また、村の中心地となり公共機関をはじめ、旅館や商店などが建ち並びましたが、今は静かな住宅地になっています。しかし、江戸時代の長官家旧屋敷には、長屋門や石垣が現在も残されており、表通りには登録有形文化財指定の建物が2件あり、その他に倭姫命の旧跡地・千田の御池・鏡楠(残根)・天井石・風呂屋の谷・石神など、見どころがたくさんあります。」(案内板から)
倭姫命遺跡 千田の御池
「千田の御池(ちだのみいけ)
 古蹟とう千田のみ池は渇れはてて
  生い立つ草に穂芒もあり
 上之郷上の里に千田のみ池さんがある。倭姫命さんがこの地で真名鶴が一茎千穂の稲穂をくわえ飛び鳴くのを奇瑞となされ、稲を天照大神さまに献じられ、この地に引水田と苗代を造られたという。この池を千田のみ池といい、今は十坪ほどの窪んだところとなっていて注連縄がめぐらせてある。」
(案内板から)

伊雑宮(いざわのみや)

伊雑宮鳥居 伊雑宮と社叢 伊雑本殿鳥居 伊雑本殿
 1月26日は伊雑宮へ向かう。
 境内には勾玉池や巾着楠など。
勾玉池 巾着楠
「伊雑宮
 旧暦の六月二五日の御祭の日には七尾のサメが海の神のお使いとして沖の方から参拝にくるという伝説があり、現在でもこの日は海女は海へ入らない。また伊豆諸島や能登半島ではサメに襲われた時に「イソベさん」と呪文を唱えれば助かるという伝えがある。」(『三重県の地名』から)
 車で行くとあまり海の近くという感じはないのだが、鸚鵡岩から眺めると、伊雑ノ浦がすぐ近くで光っていた。また社叢はこんもりと田畑の中にまとまっている。
伊雑ノ浦 伊雑社叢遠景

鳥羽の晩餐

IMG_219.jpg IMG_221.jpg
1月25日の夕食。実は伊勢海老、鮑付きで安いのも、行く動機の一つになった。
IMG_220.jpg IMG_222.jpg
前のページ 次のページ

FC2Ad