フィールドノート(民俗野帖)

「研究ノートと書評」改め

賤ケ岳

賤ケ岳山上から竹生島 余呉湖 賤ケ岳山上
 リフト山上駅まで帰って来て、「賤ケ岳山頂まで0.3km」の表示を見て、山頂まで行くことにする。たいがい、もうしんどいのだが、300mくらいならなんとかなるだろう、と思ったからだ。展望台では、リフトは止まっているのに、自動販売機が動いていて、スポーツドリンクで喉をうるおせた。これまで見えなかった余呉湖も見下ろせた。
 これで近江今津のホテルで泊まり、西友で夕食、6月1日の行動を終える。
賤ケ岳山上銅像 賤ケ岳合戦戦没者霊地
山頂にあった落ち武者?の銅像や、合戦戦没者慰霊碑やら、そういえば古戦場であった。

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阿曽津千軒の位置

阿曽津千軒
用田政晴の「琵琶湖の水没村伝承」(『琵琶湖博物館開設準備室研究調査報告』第2号)の明治地測図による阿曽津千軒の範囲は、有漏神社が北の端に当っている。また、実際に千軒跡を訪れたインターネットの記録(例えば堅田)を見ると、奥山の地蔵堂と呼ばれる小さな地蔵堂があるようなのだ。これは、日を改めて今度は西野水道から北のルートを通って近づくのがよいだろうと思う。
 最新の地形図でも、西野水道から古保利古墳群を経て、稜線よりも西よりの道があるように見える。
阿曽津地形図
 今回は琵琶湖側では、竹生島と葛籠尾岬を、木ノ本側では湧出山(ゆるぎやま)を尻目に、賤ケ岳へ向けて尾根道を帰ることになった。上り下りはあるが、どちらかというと登り気味なので、脹脛が痛い。最後の写真は、賤ケ岳から尾根道をふり返ったところで、奥の三角峰が山本山である。
葛籠尾岬と竹生島 湧出山2 賤ケ岳から山本山尾根



有漏神社(うろうじんじゃ)

有漏神社鳥居 有漏神社拝殿 有漏神社
 湖岸に降りてから、右手に200mばかり移動してようやく有漏神社の石鳥居に辿り着く。この鳥居の写真がみな同じようなものになるのは、すぐ後ろに琵琶湖が迫っているので、距離を取れないからだ。参詣は船で来るのが普通だったようだ。
 鳥居の後ろの急な石段はどうも途中で、土砂に飲み込まれてしまったようで、右に山道で迂回して、ようやく狛犬、拝殿と本殿にまで行き着く。
有漏神社琵琶湖


有漏神社1 - Spherical Image - RICOH THETA



有漏神社2 - Spherical Image - RICOH THETA





新坂と琵琶湖岸

新坂道 新坂から湖岸 新坂と米蔵
 分岐点から下って行くと、琵琶湖岸に降りる。案内板があり、
「新坂と米蔵
 ここから、山向こうへ越える道を新坂とよびます。米や切石などの物資を運ぶために、明治8年に地元の人たちの手によってつくられた道です。その当時は、丸子舟とよばれる船に積み降ろしされる米を保管するために米蔵がこのあたりに建てられていました。湖岸には、当時の繁栄を忍ばせる石垣が残っています。」
とある。つまり、今降りて来た道が新坂なのだ。
有漏神社まで200m 山梨子遠望 湖岸石垣 湖岸石垣2
 案内板の近くに道標があり、「有漏神社まで0.2km」という表示。湖岸に沿って石垣もある。湖の向こうに見えるのは山梨子集落であろう。
「<大字西野を中心に古文書、過去帳等をずいぶん調べたが、阿曾津という名前は出てこない。また江戸時代には、木戸ヶ浜、片山、山梨子がこの地域の物資の集積地であり、特に、彦根藩への米は、船積みのために木戸ヶ浜へ集められたという。このように阿曾津は、近世以降は全く知られなくなったようである。>」(今井清右衛門氏の談 用田政晴「琵琶湖の水没村伝承」から)
「集落の南端宮河原みやがはらに有漏うろ神社が鎮座。古来湖上舟楫の神として堅田漁師からも崇敬されたという。二月一六日にオコナイを執行。祭儀には氏子は舟で参拝する。」(『滋賀県の地名』から)
 これらによると、ここらは宮河原といわれた場所で、石垣や神社も明治くらいのもので、阿曾津との直接のつながりはないようだ。用田論文によると、「阿曾津の湖底、水深およそ8mから10数mには石積みと石臼が遺存することから村とおぼしき遺構が眠っていると考えられ、かつそれが湖中に没したのは近世以前のことと類推することができる。」とのことである。

賤ケ岳―山本山、稜線

大音の集落 山本山縦走路2 湧出山
賤ケ岳リフト脇登山道を上がって、尾根道を南下する。リフト駅のある大音の集落が見え、左に湧出山(ゆるぎやま)が見えてくる。しばらくすると山梨子(やまなし)集落へ降りる分岐点に到達。
「山梨子村(やまなしむら)[現]木之本町山梨子
 大音おおと村の南西、西山にしやま村の西、賤しずヶ岳から南へ走る地塁山地の西麓に立地。琵琶湖北東岸の湊。山梨とも書く。天正一一年(一五八三)四月、賤ヶ岳の戦に際し、羽柴秀長は高島郡大溝おおみぞ(現高島町)より兵船一五艘で当村に着いた後、賤ヶ岳へ登っている(浄信寺文書)。慶長七年(一六〇二)の検地では畑五町八反余・高一六石余(大豆のみ)、屋敷二反余・高一石余(伊香郡志)。寛永石高帳では彦根藩領(幕末に至る)。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数六七。」(『滋賀県の地名』から)
山梨子分岐 山本山縦走路 赤尾分岐
 そこを過ぎ森が鬱蒼としてくる辺りで、日本リスを見かける。カメラを向けるがなかなか捉えられない。リフト山上駅から30分くらい歩いた所で、赤尾分岐にようやく行き着いた。赤尾とは反対の方へ向かう。
 すぐに注意書きが立っていて「この先行き止まり 湖岸沿いの道はありません 有漏神社 ここで行き止まりです。」とある。
注意書き
近江湖の辺の道湖北山岳コース
 そのコースの一部
近江湖の辺の道


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